昭和43年12月12日 朝の御理解



 御神訓 一、「神は声もなし形も見えず 疑えば限りなし 恐るべし疑いを去れよ。」

 神様程考えようでは、頼りにならんものはない。第一形もなからなければ、声もないのであるから、けれども信心をさせて頂くからには、やはり声も形も見えなくても、やはりそこに縋る心持ちというものが、神様であり仏様である。そこから神様がだんだんはっきりしてくる。只まぎらかしのものではない。いわゆる確信も、確信が持ててくるようになる。いわば信心の道というても、
 はっきり目に見える訳でもなからなければ形がある訳でもないのですから。ですから、その神様をはっきり把握するというか、分からせてもらう為には、信心の道を歩まなければいけない。信心の道を歩かずに、神様を頂いたのは脆い。信心の道を踏まずに頂いた、神様は崩れやすい。そこで信心の道を学ぶのである。又は習うたらそれを迷わず失わず、その道を辿らせて頂くのである。
 信心の道というのは、言うなら神様へ通じる道でありおかげに繋がる道でもある。信心の道というのは真心の道と書いてある。又は信心の信、信ずる心とも書いてある。又は神心(かみごころ)とも書いてある。神心そして真心信ずる心、そういう風な心が私共の心に段々強くなってくる。そこに神は声もなし形も見えずと、こう疑えば限りはないのですけれども、もう疑う余地が無くなってくる。
 そこまで信心をひとつ高めてゆきたい。そこまで信心を進めてゆきたい。で、ないと信心しておる値打ちが無い。只お願いをしたらおかげを頂いたと。けれども次にはお願いはしたけれども思うようにならなかったと。いわゆる半信半疑になってくる。これでは信心のいうなら値打ちが無い。迷わずにすむ崩れんですむ信心を頂く為に、どうしても信心の道を私共が体得しなきゃならん。
 信心の稽古、信心の稽古というのは、それなんだ。お参りをする、拝むという事だけで稽古が出来るのじゃない。信心の道というのは私共が、神様の教え、その教えを頂いて、もう事々にです、全ての事にそこから展開してくる道を求めていかなければならん。どのような事の中にでも道がつく。信心の道というのはどのような中にでも道がつく、これはもう恐れ入った話である。
 まあ極端な例ですけれども、数日前に或る教会に御神縁を頂いて、まあ一週間に三、四回参ってくる婦人が、まあ自分の働きに行っておる先が御信者さんである。そこで導かれて、そこの教会に御神縁を頂いたというのです。女一人で子供四人か五人かおられます。まあ大変難儀な中を通られた訳ですけれども、もう昨日四、五日前本当に、あのお届けしにくそうにお届けされるのにですね。
 今は子供達が大きくなってから段々おかげを頂いて、自分も働かせてもらいよるから、まあ経済的にもどうやらこうやらおかげを受けておりますけれども、何年か前に税金が納まらなかった事があったと。一万五千円ばっかりのお金であった。それをその役場の方が立て替えてくれるという。もうそれこそ本当にそん時には地獄に仏の思いでございましたと、こう言われる。ところがその方から色々な誘いを受ける。
 所謂誘惑です。ね、本当に助けてもらったからと言った様な事から、そのいわば誘惑の手に掛かって現在ではそれがいけない、いけないと言い乍らそのまま続いておる。なんとかその清算したいけれどもなかなかそれが出来ない。本当に御信心を頂きよってこんなこっちゃいけんと自分でも思うけれどもどうにも出来ない。人間のまあ業とでも申しましょうかねえ、人間の性の悲しさというものにまあ直面しておられる訳である。
 心にはいけないと思いそうだけれども体の方がいう事をきかん。そしたらね御理解に私が頂きます事が、そこからね道を求めて道を探していかにゃいけんと。そして次にはお繰り合わせを願わにゃいけん。私はそう言う様な御理解をその人に聞かせて頂き乍ら、はあ信心ていうのはどの様な中にでも、道がつくんだなあという事を思うた。はあ信心しよってそげな事じゃでけんやめてしまいなさいと言った様な事じゃないという事。
 それが道では無いという事。成程人道、人間の道としては、これは許せない事である。所謂問題である。けれども、ね、この私共が頂いておる天地の親神様という神様の目から見ればです、神様の目から御覧になれば、それは犯罪でもなからなければ、所謂罪な事と言うけれども罪な事じゃない。それに心が引っ掛かって苦しんでおるという事がです、いけない事だ。
 いわば「火の車、造る大工はおらねども、己が造りて己が乗るなり」である。神様が火の車造りなさるはずがなかて。自分が造るのである。しかしそういう中にあってもです、自分が苦しんでおる時でも、既に火の車に乗っておるのだ。けどそういう中にあっても道をもってすると、その火の車から出る事が出来、降りる事が出来る。しかもそこにはです、例えば逢引きなら逢引きの万事万端のご都合お繰り合わせまで頂ける。
 そうしてゆくうちにお繰り合わせは、又願えというのである。そこに例えばです、ね、段々お互いがそこんところを自然の中に、自然の働きの中にお繰り合わせの頂けれる道というのは自然に例えていうならば別れさせてもらえれる、人が見ても神様から御覧になっても、人から見られてもです、いうなら合点のゆく道が開けてくるというのである。そこからですね、そこからそうゆう道を、私共が頂かしてもらうという事。
 これは神様の、私は例えば、人間の考えで良くない事、悪い事すぐ分かるんです。けどもその神様は、それを責めたもうような、神様でないという事。心のいわばかしゃくとこういう事を申しますね、自分のしておる事にです、いわゆるそのせめさいなまれるという事。神様が責めなさるのじゃないて、自分で自分の心を責めるのである。そういう中に道を求めるのである。
 同じ事なんです続いておる事は。それでもそこに安心がある。ああこの様な事の中にね、この様な汚い事の中にでもこの様な悪い事と分かっておる中にでも、神様は万事お繰り合わせを下さるという、神様がそこから頂けれる。火の車じゃないのである。そうしてゆくうちに、人間は人間らしい生き方をさせて頂く為の道を段々お繰り合わせの中におかげが頂けれるというのが、お道の信心なんです。それがお道なんです。
 昨夜、北野の地区の青年会がございましたから、皆ここから若先生と末永さんが行っとりましたから、皆が送ってくるじゃろうと思うてから、一寸待っとりました。そのうちに、あの一寸戸を開けたら花札が入っておる。もう私は、あのこれが大一番嫌いなんです。所謂博打を打つという、まあ、ねえたまにその正月かなんかん時に歌留多を取るとかトランプでもするとかいうのは、まあだいいて。
 同じ例えば札でも花札っていうたら、もうやっぱ一番下品な遊びですからね。私共は外地におりましたから、もう北京辺りの人は、もう北京中これをしない所はないです。家族中あげて一晩中やりますから、麻雀やら花札なんか。けれども私の方だけは、それをしませんでした。もう私が嫌いですから。もう本当にどんなに上品な生活しておっても、花札なんかがあったら、もうそれでおしまいと言う様な感じさえするんです。
 私なんか。誰がこんなもん持って来たじゃろうかと言うたら、そのう、なんか貞男さんが持って来て子供達に教えとったちいう訳なんです。別にそれをしておった訳じゃなかて。そしたらもう明日来たなら返しときなさい、と言うて私は家内にそれ勝手の方へ下げさせましたんですけれどもですね。そう言う様な事でもね、神様がね、それをこげな遊びはいかん、こげな事はいけないという事はないのですよ。
 上品とか下品とかと言うのは人間が言うだけなんです。けども私は何故いけないかと言うのはね、あれがね、人間がね、実際に本当に働くという事ね、働くという事によって、いわば神恩報謝の生活が出来るというのにです、働かずして楽をしようとする心、ね、博打なんかはそうです。なかなかこれも、所謂そのサイコロいじりていうんですかね、花札なんかやりだしたら、それが止められない。
 しかもそれ、お金を掛けたり物を掛けたりするごとなったらいよいよ止められない。それで渡世するようになる。だからこれは神様の気感にかなわんと、私は思うんです。例えばさっきから申しました、そういう事よりも、もっと神の気感にかなわんというのは、これはかなわんです。働かずに食おうというのですから。はたを楽にさせるどころか、ね、はたを苦しめるんですから。
 これはもう極端に、例えばそうゆう習慣、習性というものがついておる人はおかげをお取次を頂いてお願いをしてです、それを止めさせてもらうおかげを頂かにゃならん。そうゆう心にはもう道のつけようが無い。まあ言うならばね、もう止める道より他にない。いかに神様が寛大だと言うても、これは許されない感じがする。遊んで食べようとゆうようなものなんですから。
 初めの間はまあ煙草一本位でやってゆきよる。所が初めは何にも掛けんからいいと言いよるけれども、掛けなきゃあ面白くなってくる。「神は声もなし形も見えず 疑えば限りなし 恐るべし疑いを去れよ」神様は疑えば限りがないのですけれども、声もないのですけれども、姿も形もないのですけれども疑いを去れ、又は疑い恐るべし疑いを去れよとこう言うておられますが、その神様を分からせて頂く為に信心の道がある。
 信心の道の中には、今日はどのような中にでも道がつくという事を申しました、ね。信心の道を知らない間は、その為に自分の心の所謂呵責、所謂火の車に乗って苦しく一生を終るというような人達もあろうと思うけれども、決して神様はそれを責め苛み、責めなさる事はない。自分の心で自分の心を責め苛むのである。けれども救いのない、道のつけようのない事がある。
 それはね遊んで楽をしよう遊んで食べてゆこうと、こういう根性には付け様がない。道の是には付け様がない。自分自身が自覚してどうでも止めたい、どうでもそこからおかげを頂いていきたいと発心すれば別である。発心しない限りにです例えばそんなら、そうゆう事をです例えば博打打ちの人がです、ね、今日どこどこで博打の会があるからどうぞ勝てますように、と言う様な中には、道がつけられないとゆうのである。
それは今度一回ですよとゆうような中に、おかげを頂かしてもろうて、はあやっぱ神様の働きじゃなぁと分かって、そこから例えばその事を止めてゆくとゆうのは、あのうありますねえ、湯川先生のお話の中に。泥棒でもこれはもういよいよ遊んで食うてゆこうとゆう訳でしょうけれども、これはまあ自分でも働きなさる訳ですからね。よその物を持ってくるであるばってんか、まあ泥棒よりも悪いですよ、博打は。
 神様の目から御覧になるとですよ。泥棒は、あなた、自分ではあもうやっぱひとつの働きなさるとですからね。よそのもんじゃあるけれども、じっと持って来るだけですから。しかし持って来るそのものもです、その人の物のごとあって実を言うたら神様の御物ですから。久留米に一寸新興宗教的なものがあったんですよね、それは久留米で有名な何々弁護士さんのお兄さんにあたる方やったです。
 まだあさひ屋と言うておる時にあさひ屋のデパートからごっそり風呂敷包んでからその持って帰りよんなさった。そしてその人が曰くです、これはあさひ屋んとじゃない神様の物ち、だから誰が持って帰ったちゃよかち。一つの理が立つ事なんです。お兄さんが弁護士さんじゃったからね、おかげでまあよかったらしいんですけれども、その話聞いた事があるですけれども確かにそうですよね。
 神様の目から御覧になれば一視同仁であったり一物の御物の中に一切神様の御物だという見方がある。神様の御物をあっちからこっちに持ってくるだけだから悪い事ないじゃないかというような理屈も成り立つんですけれども、この博打だけには道が、説明が救いがないですね。恐らく私は湯川先生でもですねえ、泥棒のお取次はなさった。こんだぎりぞうちゆうてから。けども博打の場合は、そんな訳にはゆくまい。
 これは本人達が本人があまり成程罪にもならないとゆうような事かもしれん、博打の国がある位ですからね。けどもこれは本当に金光教の信心から言うと、もう道のつけようがないという程の私はいけない事だと、こう思うですねえ。ですからどういう事の中にでも私共がお取次を頂いて道をはっきりさせてもらう、どういう苦しんでおる、苦しい中にでもです、道が必ずそこにはっきりつく。
 そこから神は声もない形もないけれども、声も形もない神様をはっきりそこに見る事が出来る。そこに神様の働きを感じ取る事が出来る。これはもうどうゆう事の中にでも、いわゆる神様を頂く事が出来る。まあもっともっと大きな見地から言やあ博打でもですねえ、それは許されるかも分かりません。それは私の考えです。これだけは神様は許されまい、泥棒よりも悪い姦通よりも悪い。
 それは働かずして食べてゆこうとゆうその根性が、私は天地のしんにかなわん。極端な話でございましたけれどもね、そうゆう道をです、いよいよはっきり分からしてもろうて、どうゆう中からでも道がつく事を分からしてもろうて、そうゆう道を、最後に信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよと、こうおっしゃるのですから、ね。そうゆう道を私は体得して、それを子に孫に伝えてゆかなかければいけない。
 信心は喜ばして頂く稽古だと、こう一言(いちごん)に、で言えれると思うんですけれども、ね、私共が信心によって喜びの道を発見させてもらう時です、ね、そこにはね、もう改まれなかった事が改められる。自分ではどうにも出来ないと思うておる事の中にでも、ね、それを案外見易くそこをおかげ頂いていけれる事が出来る。それは信心の、から頂けれる喜びである。
 ですからどうでもその喜びの道を分からして貰って喜びをもって私共の人間の社会に処してゆくと、それが私は所謂信心の道だと思うですがね。その喜びそうゆう喜びをもってお繰り合わせを頂きながら改められる。改めねばならん所は改めてゆかねばなりません。又神様はそうゆうお繰り合わせを自然につけて下さいます。ゆうならば人間が見ても神様が御覧になっても合点の行く様な所に出られる様にして下さいます。
 そこは喜びをもってするより他にありません。昨日も私、或る方のお取次をさせて頂いたんですけれども、あの茗荷というあのお野菜がありますねえ。所謂茗荷、茗荷の花とか茗荷の篠とか。茗荷の篠もですねえ、この位束にしてあるんです。あれはこう括ってもこう竹の子のようになりますよねえ。上が小さくて下が大きいから。茗荷っていうのは、なかなかしっかりしとるようであってすぽっと、こう抜けやすいのです。
 だからあのあなたのは富貴繁盛に繋がらんのだという御理解を頂いた。折角喜びの稽古を一生懸命しておる。けども、その喜びの、そのなにがです、わらしべ一本でこう括ってあるんですよ。だからそれがするっとこう小さい方へ抜けてしまいよる。妙賀栄える富貴繁盛とおしゃるが、その妙賀のおかげを頂かなければ富貴繁盛に繋がらない。ところがその折角頂きよる妙賀が何時の間にか、すぽっすぽっと抜けてしまう。
 それがどういう時に抜けておるかというとです、この事にはお繰り合わせ、お取次を頂いて道をつけて頂くけれどもです、道をつけんなりに私共が様々な事をしておる。ね、良い事悪い事につけてお取次を頂かんなりに、それが道づけをされんなりにそれがなされてゆく時にです、その喜びの、そのわらしべがほどけてしまいよる。小さい方へすぽっと抜けてしまいよる。所謂自分本位というかね、楽な方へ楽な方へとなってしまいよる。折角のその喜びが富貴に富貴繁盛に繋がるんだけれども。
 それをやってゆかないて。ここんにきからですね、喜びが、富貴が富貴が富貴繁盛が消えてくるんです。この頃秋永先生の奥さんがお届けをされる中にです「先生私はどうでもひとつお繰り合わせを頂いて、あの千円以上の物を買う時には、お取次を頂く事にしたいと思います」と言うんです。千円以上の物を買い求める時にはお取次を、はっきりそこから道をつけて頂いてからしか、買わんというのである。
 例えば例を言うとそうなんです。それをです、例えば道をつけずに只買わして頂きますなら買わして頂きます位で、それを買いよるもんじゃからちゃんとそれが喜びが消えて、そしてそれが繁盛に繋がらないんです。どこから喜びの、そのそれがなくなるかと、どのような事の中にでも、私はだから良い事。あんまり極端から極端の話をしましたから。あれですけれどもその中間のどの様な事の中からでもです。
 お取次を頂いてそしてそこから道をつけて頂いてからそうさせて貰うという事になってまいらなければいけません。そこから私はあの喜びとそれに富貴繁盛の伴うてくるおかげが受けられる。その中からです、成程神様のおかげを頂けばお取次を頂けばという神様を信じて疑わんですむおかげも愈々強くなってくる。今日はなんか少し私が焦点をそらしたように思いますけれども、皆さんは私が言おうとしておるところをひとつよく頂き、て頂きたいとこう思うんです。
 どうぞあのどのような中にでもひとつ道がつけられる。又そこにお繰り合わせが頂けれる。けれどもね楽をして食べてゆこうとゆうような事の中には道も付け様がない。もう是だけにどの様な事の中にでもだけれども。そしてどの様な中にでも道をつけてお繰り合わせを頂いていく所からです、ね、喜びに繋がりその喜びが富貴繁盛に繋がってゆくのだと言う様な事をまあ申しましたですね。
   どうぞ。